長野県栄村に移住して4年目。自給自足の農業をしながら、自然によりそって暮らす生活をつづります。 体験プログラム「ワンライフジャパン」もやってます。


by lalalar
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カテゴリ:雑感いろいろ( 19 )

相手を傷つける意図や意思をもたずに 行った行為が
相手を傷つけてしまったら、 その行為は 許されるべきでしょうか?
それとも、悪意がなくても 相応の 断罪をうけるべきでしょうか?

これは、本当に難しい課題だと思います。

特に私たち夫婦のあいだでは 常に問題です。


まじめで 一生懸命、一図で 正直な 夫。
でも、細かい気配りができず、あっちこっち ほころびだらけ。
だから 意図せずに 人に迷惑をかけたり 困らせたり。

他人に対しては 平にあやまります。

私に対しては 謝った上で、許してくれという。
だって「悪気はなかった。悪いと思っている。どうして許してくれないの?」

う~~~~~~ん。。。。

悪気がなければ 許されるっていうこと????
すんなり許せない私が 反対に 問いただされてしまう。
何で許してくれないのって。

悪意がない行為でも 人が傷つくことはよくあること。
でも 相手を傷つけてしまった人は 悪意がないから 無罪放免?
なんだか納得いかないな。

傷ついた人は、負った傷をかかえながら
許しを与える という ある意味 ストレスフルな要求も背負うことになる。
二重苦ではないかしら?
なんだかアンフェアになっている気がしてしまう。

きっと 悪意を持たずに傷つけてしまった人も
傷ついたり 苦しんだり してるんだろうけど、
私たち夫婦のように これが 繰り返し起こる場合、
毎回毎回 許しを乞われても 許す方が 呆れてしまうというか
許容量の限界に近づくってこともあるのです。

いったい この人を どれだけ 許せばいいのだろう、って。

きっと どれだけでも 必要なだけ というのが 答えなんだろうな。

これだけイライラして、許しがたくても
まだ一緒にいるってことは、愛があるからなんでしょうね。

でも 愛があれば 何でも許せるんでしょうか?
そうじゃない気もする。。。
なんだか 堂々めぐり。

やっぱり 許すのって すごく難しい
そう思う 今日この頃です。
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by lalalar | 2009-06-05 16:57 | 雑感いろいろ


昨日のブログで、
環境省が新しく導入した「エコポイント制度」について コメントしました。

「温暖化対策型商品の選択をするためのインセンティブとして」
という大命題のもと導入されたが、結局は 消費型社会の継続を
前提とした制度だと思う。


私たちが東京を離れ 田舎暮らしをしようとしていた
2007年の初めのころは 今ほどに はっきりと 強烈に
認識してはいませんでした。

でも 消費社会の象徴でもある東京から離れ
自分で土を耕し、食べ物をつくり、地域コミュニティの一員として
地域とともに生活するにつれて、
現在の政治・社会・経済システムのゆがみが
非常に目につくようになりました。

その思いを裏付けるかのに、昨年末の金融危機から
様々な分野で社会のほころびが 露呈していると思います。

・非正規社員の解雇
・不沈と思われてきた大手企業の倒産・国家管理・大幅赤字転落
・食品偽装・汚染
・食糧自給率の悪化
・インフルエンザなどのパンデミック・リスク
・原油高

などなど、思いつく短期的な変化だけでも いくつもあります。

これに加え、これまでにもずっと問題だった

・日本の資源・食糧の生産機能をになってきた
 農山漁村の高齢化、後継者不足、過疎化
・高止まりする自殺率
・アトピーなどの先天性アレルギー疾患
・飽食と不自然なライフスタイルがもたらす生活習慣病
・地球温暖化
・ごみ問題
・治安
・教育現場の問題

など、本当にたくさんの 「サイン(=兆候)」 が見えます。

これはすべて 現在のシステムが機能不全になっている
サインではないでしょうか。

これを真摯に受け止め、対策を熟慮し、行動するのか
それとも、見て見ぬふりをして やり過ごそうとするのか
それが個人のレベルでも問われていると思います。

都市や地方など暮らしている場所にかかわらず、
大なり小なり 今や誰もが このシステムの中で生きています。
資本主義というお金を一番の価値基準としたシステムです。


昨日のブログにもどって、エコポイント制度。
これがおかしいと感じる理由は、自然環境がもつ価値を
金銭でしか図ることなく 破壊し続けてきた消費という
システムの継続を前提とした取引だからです。

システムが機能不全を起こしているのだから、
そのシステムを直すように動かなければいけないのに
バンドエードを張り付けて応急処置をしようとしている。
それを国家政策として行おうという ビジョンの無さ。
これに辟易とし、虚しさを感じているのです。

「システムを直す」ことは 容易ではないと思います。
でも 必ず今のシステムは 変わります。
というか、システムは常に変化し続けています。

その変化の方向性を読み取り、自分で解釈し、
行動できるかどうか、それをいつ行うかどうかが
きっと 命運の分かれ道になるのではないでしょうか。

その行動も、自己防衛的な行動であれば
システムの崩壊とともに 一緒に沈む可能性が高いと思います。
やはり コミュニティなのです。
人と人がつながってつくられる コミュニティがなければ 人は生きられないのです。
それなしに生きられるようにした好例が 消費社会・東京です。


村上春樹がエルサレム賞受賞にあたったスピーチで
言った言葉が 私たちにも当てはまります。
戦闘状態が続くイスラエルの状況とは違いますが、
システムという視点でみると 実は共通しています。

「システム」がわれわれを食い物にすることを許してはいけません。
「システム」に自己増殖を許してはなりません。
「システム」が私たちをつくったのではなく、私たちが「システム」をつくったのです。(全文はこちら)


既存のシステムに乗って うまく生きる方法を探すのではなく、
必要なシステムを自らつくっていくのが 私たちにとって
いま一番大切なことだと思っています。


見た目も悪く、価値のない人参? それとも、健康に育った 自然の恵み?
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by lalalar | 2009-05-18 09:09 | 雑感いろいろ

未来へのビジョン



皆さんは 社会に対して どんな将来像を お持ちでしょうか。
未来の世界はどんな風になると イメージしているでしょうか。

未来の世界といっても、別にSFの話ではなくて、
10年後、20年後、もう少し先の2世代くらいあとのことを
想像してみてください。

どんな社会で あなたの子孫や 友人の子孫は 
暮らしていますか。

空は青いでしょうか。鳥は飛んでいますか。
空気は奇麗でしょうか。
街の雰囲気はどうでしょう。
そこで暮らす人々の表情は明るいですか、暗いですか。
どんな仕事をしていますか。
食事はどんなものを食べているでしょうか。

そんなことに ふと 思いを馳せてみませんか。

はっきりしたイメージがわかないときは
少しだけ情報を収集して、それらが何を意味するのか
自分の感性と知性をフルに動かして考えてみると
イメージがふくらみます。

どうでしょう。
今よりも「いい」世の中になっていますか?
今よりも「悪い」世の中になっていますか?

主観的でいいと思います。
論理的である必要も、説得力がある必要も ないと思います。


社会の将来像が思い描ければ、
そんな未来につながる「今」を生きる上で
どうすれば自分の信念や情熱を 実現できるだろうか。
自分はどんな風に生きていきたいのか。そんなことが見えてきます。
それが 生き方のビジョン です。

社会のレベルでも、個人のレベルでも
明確な将来像や ビジョンを もたずになされる決定は、
その時はよくても やっぱり先につながりにくい。
ビジョンのない行動は 見ていても 薄っぺらくて、頼りない。

そう強く感じたのは、最近導入された環境省のエコポイント事業。

「温暖化対策型商品の選択をするためのインセンティブとして」
という大命題のもと導入されたが、結局は 消費型社会の継続を
前提とした制度だと思う。

いまある消費型社会をそのままに、地球も社会も
守ることなどできないというのに。。。

本当に将来につながる環境対策をと思うなら、
いまあるような小手先の環境対応型商品への切り替えを促すまえに
本来あるべき環境対応型商品を企業に開発させる仕組みが必要だと思う。
耐久性があり、モデルチェンジがなく、修理しながら長年使えるような
本物の消費財をつくり、中古品を流通する仕組みまで考えてこそだと思う。

社会の将来像と、そこで果たすべき自らの役割に対するビジョンが
明確になっていないのだろう。 本当に中途半端な事業だと思う。
見ていて 悲しくなってくる。

こういう 今を乗り切るだけの施策をつづけても
将来にはつながらない。
そうしている間にも時間は過ぎてゆく。
対症療法ではない、根本的な体質改善が必要だというのに。。。

国や行政のレベルで迷走していたとしても、
個人のレベルでは 社会の将来像と、人生のビジョンを見失わずにいきたいと思う。


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by lalalar | 2009-05-17 19:30 | 雑感いろいろ

受けとめられる幸せ



誰でも 誰かに 受けとめられたいと思っているのではないかしら。

話をしているとき 自分の言葉を 相手が「受け止めてくれている」と実感できたとき
ふたりのあいだに ほんわか 温かいものが生まれます。

自分を表現して、それが受けとめられる・理解される。

すごく幸せなこと。

だから 相手に「受け止めてますよー」というメッセージを送りたい。

「そうだね」と相槌を打つのもいいけれど
相手の言葉をくりかえしたり、自分の言葉におきかえてみたり。
少し意識することで 相手の気持ちが大きく変わる。

今度はそれが自分にかえってきて、お互いに幸せな気持ちを共有できる。

そうすれば 少々キビシイことを話しても
共有するベースがあるから 大丈夫。 余裕をもって受けとめられる。

あなたのこと、聞いてますよ。見てますよ。

それが嬉しくて また話をするんだね。
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by lalalar | 2009-02-24 10:59 | 雑感いろいろ
ゆっくりと自分のペースで考える時間が どれだけあるでしょうか。

一日 一週間 一か月 一年 を振り返ったときに
どれくらいの時間 時間の制約からはなれて 心と頭と体を解放し
考えることに没頭できているでしょうか。


仕事のことや 実生活のあれこれなど  必要にかられた思考ではなく
自分の内面や 世界のことについて 「思索」できているでしょうか。


私が子どものころの1970年代と現代を比べると
比べ物にならないほどに情報量が増え、
毎日 携帯、メール、インターネット、テレビなどからあふれ出る情報にさらされています。

また そういう情報を把握していることが社会的に評価され
情報をふかく思索することなく それらを取り入れ、
未消化のまま 次へと進む そんな毎日がくりかえされているような気がします。

私が東京で会社勤めをしていたときも
情報をたくさんつかみ、そこからトレンドを把握していることが
能力の高さの証明として扱われていました。
だから 自由時間まで費やして 本を読んだり、セミナーにいったり
情報収集に励んだのです。

朝から晩まで みっちりと詰まったスケジュールをこなすのに追われ
自分の頭で考え、心で感じる余裕などほとんどなかった。
そのころを振り返ってみると 当時 なにを考えていたのか、していたのか
はっきと思いだすことができません。
一年という大きな単位で大雑把には覚えていても
どんな思いや思想をもって 自分が生きていたのかという
自分の生きた軌跡をきちんとトレースできないのです。

先日父が遊びにきたときに 仕事が忙しかった40代のころの記憶が
ほとんどないという話をしていました。
クライアントを満足させるために奔走したことは覚えていても、
自分が描いた作品すら思い出すことができない と。

それはきっと 自分のこころと頭を使っていなかったから。
みずからの感性と頭脳をつかって 内部化する「思索」という過程を経ずに
生みだされる毎日は 希薄な軌跡しか残せないのです。

私が東京を離れて、一回きりの人生 思いきり生きてみたいと思った根底には
吹けば消えるような 希薄な人生の軌跡に対する悲しみがありました。
自分の人生のはずなのに 自分が生きた証しも実感もないような生き方。
他の人の名前を付ければ 成立してしまうような人生は いやだった。
死ぬときに後悔したくなかった。

だから 今は遅くてもいいんです。
効率や経済性からかけはなれていても
自分で考えて 感じて 自分の手で築いていきたい。
どんなことも 自分が生きていることを実感できる方法でやってみたい。
生きることの原点に立ち戻ることで 生きることを自らの手に取り戻したい。
そのための苦労なら 惜しまない。

そう思いきれたのは、田んぼに立って 大空を仰ぎながら
大自然のなかで汗を流した瞬間でした。
ただ ただ 気持ちよかった。 心と体がうれしかった。
それでいいんだと 腑に落ちたのです。
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by lalalar | 2009-02-23 13:01 | 雑感いろいろ

豊かさの指標





The real measurement of wealth is

how much you'd be worth if you had no money.


豊かさをはかる一番の指標は

一文無しになったときに 自分にどれだけの価値があるかどうかだ。


・・・

誰の言葉かわかりませんが、つよく共感をおぼえます。

経済力とか、社会的地位とか、学歴とか、容姿とか
オブラートのように人を何重にも覆っているものを全て取り去って
素の自分になったとき、自分にはどれだけの価値があるのだろうか。


隣人として、家族として、子どもとして、伴侶として。

そして地球に生きる仲間として。


教育の現場では「心の豊かさを育てる」ために
いろいろな授業がなされているようですが、
大切なのは「自分」を見つめ直し、「自分が何なのか」を知ることだと思います。

それは、新しいものを付け加えることではなく、
私たちを覆っているたくさんのオブラートを
一枚一枚はがしていくことだと思います。

足し算ではなくて、引き算。

現代に生きる私たちに必要なのは、「引き算」の発想かもしれません。


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by lalalar | 2009-02-18 13:26 | 雑感いろいろ

限界に向かう社会

年末年始は夫の実家でゆっくり過ごしました。
特別なことは何もないけれど、ただ家族が一緒にゆっくり時間を過ごすこと。
それがこんなにも幸せなものだということを、久しぶりに実感しました。
もしかしたら、これほどの充足感と幸福感を感じたのは、初めてかもしれません。
「幸せ」は心のありようなんだと思います。

それを思うとき、今の社会のことを憂えずにはいられません。
年末にアル・ゴアの「不都合な真実」を見ました。
そして4年ぶりにアメリカに行って社会の現実を目にするとき、
なぜ人々はこれほどまでに限界に向かってひた走るのか?
そう思わずにはいられませんでした。
いま”当たり前”、”こうあるべき”と思われている多くのことは
ほとんどがつい数十年の間に生まれた価値観や慣習であって、
本来人間の生活に必要なものではないものが大半です。
wants(欲望)の部分と、needs(必要性)を見極められないと
際限のないwantsに振り回されてしまいます。

環境問題にしても、いまあるwantsを見直さずに
それを実現する方法論を環境に配慮したものに変えるだけでは
よいことをしているという自己満足は得られても
世の中が変わることはないでしょう。

世界が良い方向にむかうために何かをしたいと思い、
小さくても努力を続けていますが、wantsが支配する先進国の
社会のありようを見るにつけ、絶望感を感ぜずにはいられません。

いっぱいの幸福感と、冷や汗のようにじわりと背筋を凍らす絶望感を
感じながら迎えた新年。
絶望に浸るのではなく、また目を背けるのでもなく、
絶望を力に変えて、精一杯、全力でこの一年を生き抜きたいと思っています。
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by lalalar | 2009-01-12 05:47 | 雑感いろいろ
やってみたいと思うことがある。

でも、何をどうすればよいのかわからない。

そんなとき、小さくても一歩を踏み出すと急に視界が広がってくる。

このドキドキ感。このダイナミックさ。すごい。

引き金はやっぱり「好き」な気持ちと、「やりたい」という思い。

これさえあれば道は開けるんだな。


・・・・・・・・・
今日、参加した、JA北信州みゆき女性部のイベントでの
事例発表を聞いていて、そう実感した。
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by lalalar | 2008-11-23 19:19 | 雑感いろいろ
どんなに努力しても、どんなに一生懸命に頑張っても
どうしてもうまくいかないことがある。

自分では一生懸命やっているのに
どうしても、うまく相手に伝わらないのだ。

いろいろな言葉を使って、必死に説明しようとするのに
私にかけられる言葉はいつだって同じ。

「話そうとしない」
「何も努力していない」
「いつも同じだ」
「なにも変わっていない」
「いつも怒っているだけ」
「ネガティブなことしかみていない」

どんなに気持ちをこめてやっていても、
少しの食い違いがあっという間に大きなほころびになり
それまでの努力も何もかも十把一絡げに
「何もしていない」「変えようという気がない」といわれてしまう。

いったい私はどうすればよいのか?

これ以上、何を言えばいいのか?

何をすればいいのか?

私にはもうわからない。



自分のしていることがまるで無価値で、
自分は最悪な人間であるかのようにいわれるとき、
私はもはやどうしたらよいのかわからない。

そして、それが幾度となく繰り返されるとき
私はもはやどうしたらよいのかわからない。

受け入れられたいという思いが
何度も何度も撥ねかえされて、
結果がよめるようになったとき、
人はあきらめるのだと思う。
もはや何をしても意味はない、と。
自分の無力さを思い知り、
そして相手への漠然とした憎しみが
心の中に澱(おり)のように積み重なる。
それがいつの間にかいっぱいになり、
これ以上受け入れられなくなったとき
心がくじけるのだと思う。

私の心もくじけてしまいそう。
もうこれ以上、何をすればいいのかわからない。
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by lalalar | 2008-09-08 16:03 | 雑感いろいろ

自分の居場所 

私が今の栄村に移ってきたとき、
いろいろな人にこう説明した

「これまでいろいろな街で暮らしてきたけれど、
これほど自分の居場所だと感じる場所はなかった。
終の棲家だと感じる」、と。

なぜそう思うのか、理由はよくわからなかった。

でも今日、私の敬愛する哲学者・内山節(うちやまたかし)の
新聞連載記事を読んで、はっとした。「それ」だったのだ!


(前略)

たとえどこであれ自分の住んでいる場所が地域である。ところがこの地域は住所表示のようなもので、働き暮らす機能はあっても、本当の「地域」と呼ぶには何かが欠けているのである。それが満たされないかぎり、自分の暮らす場所は「仮の宿」であるという気持ちをぬぐえない。

その欠けているものとは、自分の魂が還る(かえる)場所への納得ではないかと思う。

日本の人々が本当の地域と感じる所、それは生きていくための機能があるだけでは十分ではなく、魂が還る場所としての諒解がえられる場所でもなければならなかった。だから都市で暮らすようになっても、「地域」を感じる所は「ふるさと」の方にあった。

(後略)


自分の魂が還る場所―――

生まれ育った名古屋でも、長年暮らした東京でも、
留学・駐在で暮らした外国のどの町でも、どこにも感じることができなかった
地域への愛着と安心感を、私は栄村に対して感じている。

いまでは死ぬことも何か自然なことに感じられ、
抵抗する気持ちや恐れる気持ちがどんどん薄らいでいっている。

私はここで土になる。なってもいい。なりたい。

そう思うことが与えてくれる生きることへの強い確信が、
放浪し続けてきた私の迷いを断ち切ってくれた。
わたしはもう自分の居場所を探さなくてもよいのだ。
私はここで生きていく、と。
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by lalalar | 2008-07-05 14:47 | 雑感いろいろ