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長野県栄村に移住して4年目。自給自足の農業をしながら、自然によりそって暮らす生活をつづります。 体験プログラム「ワンライフジャパン」もやってます。


by lalalar
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大切な人

私のおばあちゃん。

じゃないけど、私のおばあちゃんみたいな存在。

大事な大事な人たち。




# by lalalar | 2009-02-19 11:36 | 田舎暮らし

豊かさの指標





The real measurement of wealth is

how much you'd be worth if you had no money.


豊かさをはかる一番の指標は

一文無しになったときに 自分にどれだけの価値があるかどうかだ。


・・・

誰の言葉かわかりませんが、つよく共感をおぼえます。

経済力とか、社会的地位とか、学歴とか、容姿とか
オブラートのように人を何重にも覆っているものを全て取り去って
素の自分になったとき、自分にはどれだけの価値があるのだろうか。


隣人として、家族として、子どもとして、伴侶として。

そして地球に生きる仲間として。


教育の現場では「心の豊かさを育てる」ために
いろいろな授業がなされているようですが、
大切なのは「自分」を見つめ直し、「自分が何なのか」を知ることだと思います。

それは、新しいものを付け加えることではなく、
私たちを覆っているたくさんのオブラートを
一枚一枚はがしていくことだと思います。

足し算ではなくて、引き算。

現代に生きる私たちに必要なのは、「引き算」の発想かもしれません。


# by lalalar | 2009-02-18 13:26 | 雑感いろいろ

穀類を食べること


去年は雑穀の栽培にも挑戦しました。

「雑穀」と聞いていくつか名前が頭に浮かぶ人もいるのではないでしょうか。
最近はごはんに混ぜて炊く雑穀ミックスが
「五穀」やら「十六穀」といって一般のスーパーにならんでいます。

雑穀は人が米を食べるようになる前から食べていた穀物。
米も、もともとは雑穀の一種で、長年改良が加えられた結果
現在のような性質に生まれ変わったのです。

雑穀には様々なミネラルや繊維質が含まれ、究極の健康食といわれたりします。

それに、栽培もやせ地や条件の不利な土地でも、
雑草のように強い生命力をたよりにしっかりと育ってくれるので、
山間地など水田にできる土地の少なかった地域では
戦後になっても雑穀が主食というところがたくさん残っていました。



去年私たちが挑戦した雑穀は、アワ、キビ、ヒエ、タカキビ、シコクビエ。
でもまともに食べられるものが育ったのはタカキビのみ。
盛夏に雑草の手入れを怠ったために、緑の洪水に飲まれてほぼ全滅。
野鳥にもしっかり食べられていました。

秋の収穫後がまた大変。
天日乾燥のために2週間くらい毎日シートやムシロの上に広げ、
日中に何度か裏返して乾燥を促します。
そして、乾燥が終わったら足踏み脱穀機で脱穀。
脱穀が終わったら、唐箕(とうみ)という風で殻と実を選別する器械にかける。
でもまだカラがついている実がかなり混じっています。
そのまま食べると、お米のモミを食べている感じ。ざらざらでおいしくない。

でもわが家には籾摺り機のような高価な機械はないし、
いったいどうしたものか。。。

そこで登場するのが、家庭用のミキサーです。
ミキサーに少量入れて、パルスにかけます。
そうするとあらあらふしぎ、カラが取れてきます。
どうしても一部の実は割れてしまいますが、大半の実は無傷です。
これに息を吹きかけてカラだけとばし、細かく砕けたカラをフルイで落として
やっと食べられるようになりました。

写真は、ミキサーにかける前と後です。
この違い、すごいです。


思えば、ミキサーがあるからこんな風に簡単に調整(食べられるように)できますが、
昔だったらもっともっと手間と時間をかけていたのでしょうね。
臼で搗いたり、ひいたり。
雑穀を買って食べればそのことに気がつく由もなく、健康面ばかりが強調されますが、
その裏には本当にいろいろな苦労があるのですね。
そんなことに思いをはせながら食べれば、味わいも深くなると思います。

ちなみに高キビ、おいしかったです!
(まだ20kgはあるので、おいおい調整しながら食べていきます。^^)
# by lalalar | 2009-02-13 09:40 | 食文化

田舎暮らしで大変なこと

「田舎で暮らして、一番大変なことはなんですか?」

よくこんな質問を受けます。

最近は田舎暮らしをしている人たちのブログやホームページも
たくさんあるので、Iターンする前に私もいろいろな人の声を読みました。

プライバシーがない、近所づきあいが煩わしい、
仕事が選べない(雇用機会が限られる)、
電車やバスの本数が少なくて不便、
買い物の選択肢が限られる 等々

いろいろと家庭の外側の”課題”が語られています。



私たちの場合はというと、家庭の外側の問題は全くなし。

これまで近所づきあいが全くなかった都会暮らしに比べると
近所の人たちがお互い見守って暮らす暮らしは本当に快適です。
仕事もいろいろな仕事を始めるチャンスがあり、
好きなことを仕事にすることができました。
電車やバスも本数は少ないですが、大自然の中を歩いたり
自転車にのるのは最高に気持ちいいですし、ヒッチハイクもできちゃいます。
買い物はインターネットが発達しているので特に不自由を感じることはありません。


田舎にはこういう“課題”といわれるものをはるかに凌駕する
た~~~くさんの素晴らしいメリットがあります。
だから田舎暮らしは楽しいのです。


でも、私たちにも課題はあります。
むしろ今まで気がつかなかったくらい大きな課題です。
それは家庭の内側のこと。

夫婦の関係の在り方です。

東京で暮らしていた時は、夫婦がそれぞれ違う職業を持っていて、
一緒に過ごす時間は平日夜、週末、休暇と限られていました。
人付き合いも、共通の仲間のほかに、自分の仲間、相手の仲間があって、
いわば「自分の世界」と「相手の世界」がそれぞれに存在していました。

でもいまの私たちには「私たちの世界」しかありません。
朝起きてから夜寝るまで、仕事をしている時も余暇の時も
食事の時も眠っている時も、ずっとずっとずーーーーーっと
伴侶と一緒なのです。

昔なら夫に愚痴をこぼすこともできたけれど、今は違います。
全てにおいて夫が当事者なのですから。

24時間365日の重みは、経験して初めて理解できるものです。
移住を決めてからの一年半の間、本当にたくさん喧嘩しました。
喧嘩しなかった日はないくらいです。
本当につらくて、沢山泣いたし、家を飛び出したときもありました。
でも帰るところはこの家しかないのです。
近くに24時間営業のファミレスもなく、カフェもない。
誰にも知られずに一人で時間を過ごせる場所はほとんどありません。
(もちろん車を1時間も飛ばせばありますが)
相手、問題に向き合わざるをえないのです。

それはそれは苦しい過程です。
向き合わずに済めばどんなによいか―――何度もそう思いました。

でもあきらめずに向き合い続けたのは、
突き詰めれば「愛」があったからだと思います。
相手のことが好きだから、相手のことが大切だから、
いっしょにいるのが楽しいから、ずっと一緒に生きていきたいから、
逃げずに向き合ってきたのだと思います。


苦しい過程を乗り越えるなかで、大きな変化がありました。
それは相手のことがより理解できたことです。

結婚までに8年付き合い、結婚してから2年たちますが、
今更ながら「こういう人だったんだ」と相手を再発見したという感じです。
都会で暮らしているときは、それぞれの生活に忙しく、
じっくり人と向き合うだけの時間的余裕もありませんし、
一緒に過ごすときも本当の自分を全てさらけだす必要もありませんでした。
そこまで究極の状況に置かれることがないからです。

でも、仕事も私生活も全てが共同となり、
人間関係もすべて家族ぐるみの関係となるとき、
思いもしなかったいろいろな側面が見えてきます。

それを否定するか。受け入れるか。

否定するのも大変だし、受け入れるのも大変。
自分も変わらなければいけないし、相手も変わらなければならない。

でも一人の人を深く理解し、相手を受け入れ、相手に受け入れられ、
深く愛し、愛されることは至極の喜びなのではないかと思います。

私たちの目の前には、はるか長い道のりが待ち受けていますが
これからも喧嘩をしながら少しずつ究極の喜びに向かって
進んでいけたらという思いに至り、すこし気持が楽になりました。
# by lalalar | 2009-01-16 08:23 | 田舎暮らし

限界に向かう社会

年末年始は夫の実家でゆっくり過ごしました。
特別なことは何もないけれど、ただ家族が一緒にゆっくり時間を過ごすこと。
それがこんなにも幸せなものだということを、久しぶりに実感しました。
もしかしたら、これほどの充足感と幸福感を感じたのは、初めてかもしれません。
「幸せ」は心のありようなんだと思います。

それを思うとき、今の社会のことを憂えずにはいられません。
年末にアル・ゴアの「不都合な真実」を見ました。
そして4年ぶりにアメリカに行って社会の現実を目にするとき、
なぜ人々はこれほどまでに限界に向かってひた走るのか?
そう思わずにはいられませんでした。
いま”当たり前”、”こうあるべき”と思われている多くのことは
ほとんどがつい数十年の間に生まれた価値観や慣習であって、
本来人間の生活に必要なものではないものが大半です。
wants(欲望)の部分と、needs(必要性)を見極められないと
際限のないwantsに振り回されてしまいます。

環境問題にしても、いまあるwantsを見直さずに
それを実現する方法論を環境に配慮したものに変えるだけでは
よいことをしているという自己満足は得られても
世の中が変わることはないでしょう。

世界が良い方向にむかうために何かをしたいと思い、
小さくても努力を続けていますが、wantsが支配する先進国の
社会のありようを見るにつけ、絶望感を感ぜずにはいられません。

いっぱいの幸福感と、冷や汗のようにじわりと背筋を凍らす絶望感を
感じながら迎えた新年。
絶望に浸るのではなく、また目を背けるのでもなく、
絶望を力に変えて、精一杯、全力でこの一年を生き抜きたいと思っています。
# by lalalar | 2009-01-12 05:47 | 雑感いろいろ